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ナイタイマガジン2006年5月号の「ゆきゆきて歌舞伎町」

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この記事は18年以上前の記事です。情報が古い場合がありますのでお気を付け下さい。


少し前のナイタイマガジンになるが、ゆきゆきて歌舞伎町という特集をしていた。構成はきわめてわかりづらく、大半は風俗紹介ページだが、その中でもいくらか気になる記事があった。
光は新宿からーというコラムで、歴史をいくつかひもといていた。
それによれば一般には歌舞伎町の名づけ親は鈴木喜兵衛といわれているが、実は、都市計画家の石川栄耀が名づけ親らしいとか。教えてgooにも出ていたが、そういうことらしい。鈴木喜兵衛らの「振興文化地域にふさわしい名を」との声を受けて、当時都の都市計画課長だった氏が歌舞伎町の名を提案したといわれているとか。「広場を中心に芸能施設を集める」という街づくりを推進したのも彼だったらしい。
また歌舞伎町は太平洋戦争前の頃はブリキ屋、提灯屋、米屋などが軒を連ねる、比較的裕福ではない感じの街だったようで、世帯数が920。大きな建物は明治12年に既にできていた大久保病院くらいだったという。
また歌舞伎町のラーメン店かむくらの脇、なぜか11チャンネルのヘルスの上にある、歌舞伎町の氏神でもある弁財天堂の歴史にも触れられている。それによれば 
・明治初期に歌舞伎町にあった広大な沼の畔に祀ってあった
          ↓
・淀橋浄水場の建設に当たり沼が埋め立てられたのをきっかけに、地主峯島茂兵衛(尾張銀行頭取)によって
現在の位置に移動
          ↓
・大正12年に大規模な改装
          ↓
・昭和20年の戦火で焼失
          ↓
・翌年、鈴木喜兵衛が峯島家に安置してあった本尊を仮殿に移す
          ↓
・昭和38年、弁天堂再建
結構歴史の古いもんなんですね。
わずか1ページではあるが、年表も入っているし、まだ半分はここで抜粋していないくらいのかなりボリュームがある記事だ。それなりに文献をしっかり見て書いた節が見える。こういうのが無署名原稿で出るところが風俗誌のいいところでもある。気になる人は、バックナンバーもナイタイのサイトなどでも買えると思うので、入手してみてはいかがだろうか。
他、歌舞伎町のヘルス、クリスタルクラブの広報さんに歌舞伎町のバブル期について聞いているが、やはり目に見えて人が減ったのは歌舞伎町火災以降だという話はリアルでしたね。「歌舞伎町の元々のスタイルを崩してしまうほどの過度な取締り」は、ご本人は避けて欲しいと語っていますが、残念ながら進んでしまっているのが実情です。

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