→東京知ったかぶり!・新宿区の地名の由来
とにかくボリュームある記事ですごく面白い。悲しい由来のある街では僕もちょっと心霊体験をしているので、なんとなくそのいわくもわかります。
小さな無認可(もぐり)の宿場を営んで俗称「内藤宿」と呼ばれていた。そこに目をつけた浅草阿部川町の高松喜兵衛らが元禄十一年(1698)に「日本橋を出て初駅が高井戸では間隔が開き過ぎているので、その中間に宿場を開きたい」と願い出、「5600両を上納する」と約束したので幕府はこれを許可し、内藤屋敷の北部を割かせて内藤新宿を開設した。(中略)しかし風紀が著しく乱れたため幕府が激怒、享保三年(1718)開宿から僅か20年で閉鎖を命じられてしまった。実は内藤一門の若者が宿場の女の取り合いとかやらで宿場のワルに袋叩きにされたとかいうトラブルがあり、内藤家が閉鎖を申し立てたという裏事情がある。
なあんだ、1700年代の頃から新宿は「風紀が乱れていた」のと「女の取り合いで喧嘩」なんていう歴史はあるのね。
大正9年にはコマ劇場のところに府立第五女学校(都立富士高校の前身)が開校、花も羨む乙女の花園となった。チャイニーズ・マフィアが跳梁跋扈する淫靡な現在の様子とは程遠い清純な町だった。
桜がきれいだったらしいですよ。
歌舞伎町新宿コマ劇場(府立第五女学校跡)の裏通り(風林会館前)はつい最近まで川が流れており蟹川渓谷に繋がっていた。ここが大久保の大久保たる大窪の跡地だ。歌舞伎町は森林湿地で鴨の猟場だった。
ここはいわゆる、風林会館前を左右にくねっている花道通りのことですね。川があったのはいつごろまでだったんでしょうね。京都や札幌にいっても繁華街近くの町には結構小川が流れているものですが、かつては歌舞伎町にもあったんでしょう。蟹川かぁ
日米合弁の国際百貨店構想だが、それも資金の目処が立たず不発におわった。西武王国の総帥堤義明がぶち上げた歌舞伎町大改造計画はどうなっちゃったんだろう。
そんなのがあったんだ。こんどちょっと調べてみよう。
同25年東京産業文化平和博覧会を開催したが6千万円もの大赤字を背負い込んだ。しかし残った施設が娯楽施設に転用できて、結果として本来の目的が達成できることとなった。
今だと美談にされる博覧会ですが、当時は失敗してたんですね。当時の6千万って今のいくらやら。そしてまたそれが歌舞伎町ルネッサンスで繰り返されていくのかもしれません。
で、伊勢丹の外観がおかしいのは、三つのビルの合体(で)出来ているからだ。今は判らなくしたが、以前は店舗内も境目が明瞭だった。銀行のところは以前は都電の車庫だった。都電が廃されて跡地を買収しビルを建てて合体し、一つのビルのように見せかけているのだ。 よ~く見てミイ! 中央の塔は真ん中にない。右側三分の1が少し高い・・・
ほう!なるほど。まるで、4つの一見木造みたいな鉄骨建物が1つにつながっている、風林会館向かいのバラック(?)のようなもんですね。
知ったかぶりどころか相当調べてます。学ぶところあり、しかしさんざん読み進めていくと最後は熟女ライブチャットの広告なのでかなり脱力しましたよ(笑)。引用自由だから引用のほうが本文より長めでもいいよね。
●関連サイト
「地名の由来・東京の地名 東京23区辞典 「東京しったかぶり!」トップページはこちら
コメント